子どもは学校に行かなければ成長しない?~不登校と学校信仰~
こんにちは。不登校支援センターです。
こちらは過去記事となります。皆様の日々のかかわりのご参考になれば幸いです。
学校に行っていない我が子をずっと見ていると、なにか時間が止まってしまったような、停滞しているような感覚に襲われるかもしれません。何も変化が見られないと、「このままじゃ駄目だ」という焦りもあるでしょう。「この先大丈夫なんだろうか」という不安もあるでしょう。
そういった焦りや不安から、親御さんご自身が感情をコントロールすることが難しく、「本当だったらこうしてあげた方がいいんだろうけど、どうしてもできない・・・」と、思ったように子どもをサポートできずにいる場合が本当に多いです。
しかしその焦り、よくよく考えてみると、背景に『学校信仰』というものが潜んでいるかもしれません。
学校信仰とは?
「子どもは学校に行かなければならない」という学校に対する強いこだわりを学校信仰と呼ぶことがあります。
- 学校に行かないと子どもは成長しない。
- 学校に行かないと子どもは社会に出られない。
そういった考えも、この学校信仰の中に含まれるのではないかと思います。
子どもが学校に行っていないよりも、学校に行ってくれていた方が、親として安心なのは言わずもがなです。しかし、ここで「学校に行かないと人は成長しないのか?」と少し考えてみていただきたいのです。
理屈の上では、学校に行ったら子どもは成長するのであれば、中学高校大学を出た人はみな立派な人のはずです。しかし実際には、学校に休まず行った人の中でも、問題を起こす人もいれば、罪を犯す人もいます。学歴はあってもモラルのない人もいるでしょう。制度として学校というものがあり、そこに行くのが当たり前のようになってはいますが、成熟した大人になるために必要な学びを学校で経験するかしないかは不確定ではないでしょうか。
学校のない時代・文化の人々はどうなのでしょうか?
たとえば未開の土地の人々等、そういった人は、ちゃんとした大人になっていないのでしょうか。学校だけが子どもを成長させるとは限りませんし、学校に行っていない子どもが成長しないとも限らないでしょう。みんなと同じことをやっていないと成長しないなんて決まりはありません。
「学校に行かないと子どもは成長しない」と思っていると、学校に行っていない子は成長が止まっていることになるわけですから、それは焦りますよね。「学校に行かないと子どもは成長しない」という考え、裏を返せば「子どもが成長するのは学校に行っているからだ」という考えは、あまりにも学校に依存しており過大な期待を寄せています。
学校信仰を持つ前に、各々の大人が、
- 「子どもが幸せに暮らせるようになるためには、どんな風に成長する必要があるのだろうか」
- 「成長のためには何が必要だろうか」
- 「幸せって何だろうか」
- 「人として大事にすべきことは何だろうか」
- 「成熟した大人とそうでない大人の違いは何だろうか」
このような問いを考え、答えを持つ必要があるのではないでしょうか。
そういった成長は学校でするかもしれませんし、しないかもしれません。
書籍や映画、漫画、アニメ、ゲーム、音楽、芸術、スポーツ、趣味、娯楽、テレビ番組、ネット。友人関係、師弟関係、親子関係、兄弟関係、親戚、知人、恋愛関係、仕事関係。
- どんなツールで
- どんな関係で
- どんな時期・タイミングで
学ぶのか、可能性は色々ですね。
では学校は必要ないのか?
一方で、学校信仰など捨てて、子どもには自由に生きてもらったらいい、というのも極論でしょう。
もしも企業の採用担当の立場にあったら、学校にもどこにも通っていなかった、好きなことばかりやっていたという応募者はなかなか雇えません。
そして、
- 学校で人間関係を維持したり
- 嫌でも集団生活を送ったり
- 規則や期限を守ったり
といった能力は、社会に出てからも必要とされることが多いでしょう。日本の社会のシステムの中で生きて行こうと思ったならば、復学できるならそちらの方が有利な点が多いです。
学校に行くと鍛えられるところも確かにありますし、学校の先生や仲間と楽しんだり、忘れがたい思い出が出来たりする可能性だってあります。そういったことまで考えると、「学校に行かなくても子どもは成長しますよ」などとのん気なことは言えません。子どもに「学校に行かなくても大丈夫だよ」と言うのは、一時は子どもを安心させるかもしれませんが、将来のことまで考えると責任のとりようのない言葉だと思います。
2つの視点を持つこと
このブログの中で、
- 学校だけが成長の場ではないということ
- 学校を利用することの価値について
それぞれ正反対のことを述べてきました。
ここまで読まれた方からすると、「どっちが正しいの?」「どっちを言いたいの?」と思われたかもしれません。私は「どちらも正しいかもしれない」と思います。
親御さんが学校信仰から抜け出せずに、子どもとの関係がぎくしゃくし、なかなかご家庭の中で子どもが前向きになりづらいのであれば本末転倒です。親御さんが学校信仰から抜け出した上で、感情に振り回されずに子どもと安定した関係で居られた方が、かえって子どもも前向きになりやすいです。
そういった意味で、子どもを支援する上では、学校信仰に囚われすぎない方がいいと言えます。
学校に行った方がこんなメリットがあるだろう。一方で、学校だけが子どもを成長させる場所じゃない。
そんな風に『両方の可能性』を持ち合わせていただけたら、と思います。視野が広がると、対応の幅も広がるからです。
最後に
「教育」という言葉がありますね。この教育という言葉の二つの側面を分けると、
- 「教」の部分は動物をしつけ、訓練するようなイメージ
- 「育」の部分は植物が自分で伸びてくるイメージ
という風な見方があります。
学校では「教」の部分(教育的指導)がどうしても強くなります。学校がなんとなく嫌だと感じるお子さんの中には、この「教」の部分への拒絶があるように感じられる子がいます。逆に「育」をもっと大事にして欲しい、そんなお子さんです。「育」の部分を大事にされたいということは、「この子は今はこうかもしれないけど、自分で成長するだろうなぁ」といったような「自分の成長する力や可能性を信頼して欲しい」ということです。
子どもが今受け取っている「教」と「育」のバランスはどうですか?
「育」を増やそうと思ったら、「じゃあ何も介入しない方がいいのかな?」と思われた方がいらっしゃるかもしれませんが、「育」を大事にすることと、放っておいて様子を見ることとは全く違います。
植物が自分で育つにも、日光や水、土、栄養が必要ですよね。日陰で水や栄養をあげずに「いつ咲くのかな」って待っていても、よほど生命力が強くない限り干からびていくだけです。成長が遅くとも、花が咲く気配、実る気配がなくとも、栄養を与え続ける。「育てる」とは本当に忍耐が必要で大変なことですよね。
最後に・・・
- 子どもが成長するとは、どういうことだろうか。
- 心の成長のために必要は栄養は何だろうか。
- 子どもの成長のために、私はどんな形で貢献できるだろうか。
「学校に行かないと成長しない」という考えに縛られずに、各々の親御さんがご自身の答えを探してみてもいいのではないでしょうか。
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