お悩み解決「一問一答」子供の心理学

子どもへの愛情が「条件付きの愛」になっていませんか?

こんにちは。不登校支援センターです。
こちらは過去記事となります。皆様の日々のかかわりのご参考になれば幸いです。

近々ハロウィンがありますね。私が子どもの頃はハロウィンで盛り上がった記憶はありませんが、最近では仮装パーティなどやっているそうですね。ところでこのハロウィン、そもそもどういう意味が込められている行事なのか、ご存知ですか?

気になって少し調べてみると、以下のような説明がありました。

起源とされる古代ケルト人にとって10月31日は1年の終わりであり、夏の終わりであり、冬の始まり。この時期に訪れる悪霊や魔女から身を守るため、仮面を被り、魔除けの火を炊いていたとのこと。また、新年の始まりを祝う、収穫祭としての意味もあったという。

穿った物の見方かもしれませんが、昨今ではこのハロウィンも、企業の書き入れ時、もしくは、若者が仮装して騒いで楽しむだけの日に成り下がっているような気がします。

こんな風に、宗教的な儀式や行事が形だけ残って、本来の意味が薄れているものが結構ありますね。結婚式は教会で執り行い、葬式はお寺で執り行う。それぞれの宗教をいいとこ取りしようとして、形だけ残っているような状況ではないでしょうか。

日本人は、宗教を重要視していない人の割合と、自身を無宗教だと自覚している人の割合が世界的に見て高い方だそうです。日本人の多くは、教えや神様や霊魂など、信じられなくなっているのではないでしょうか。一部のお子さんの間で妖怪信仰が流行っているようですが。

さて、私が今回の記事で投げかけたいのは、「何かの信仰を持たないといけませんよ」ということではなく、「不確かなものを信じることも大事ではないでしょうか」ということです。

条件付きの愛とは

現代においては、家電製品を買う時、車を買う時、なんでも取引をするときは、保証ありきです。
製品に不具合があったとき、取り替えてくれるという保証や、高品質であるという保証がなければ信用して購入できませんよね。保証がなければ相手を信じないのが普通です。子どもを進学校に入れるときも、「進学実績」が保証されているから信じて入学させますし、電車に乗るときも安全が保証されているから安心して乗れます。

さて、あると安心なこの「保証」ですが、これを家族関係とか恋愛とか友人関係といった「愛」にまつわる領域に持ち込んでしまうと問題が起きてきます。それは「条件付きの愛」と言われるものです。

たとえばこんな台詞はどうでしょう?

  • 「働いていて高収入なあなたなら私を幸せにしてくれそうだから愛せるわ」
  • 「美しくて献身的なお前となら幸せになれそうだから愛するよ」

言われても全然嬉しくないですよね。

  • 仕事を失って収入がなくなった自分は愛される価値がないのか。
  • 年老いて美貌をそがれた私、尽くせなくなった私には価値がないのか。

そう思うと、とても寂しいものですね。自分の存在価値ってそういうところにしかないの?って感じそうです。

自分への見返りが保証されなければ愛せない。自分が望んだ条件を満たせないのであれば愛せない。それが「条件付きの愛」です。

ここで注意していただきたいのが、学校に行かない子どもに対して、親は「条件付きの愛」を与えがちだということです。学校に行っているあなたであれば愛せるけど、行っていないあなたは愛せない、といったように。

実際のところは、大切に思っているからこそ、学校に行かない我が子が心配で心配でどうしようもないという方がほとんどだと思いますし、子どもを愛していない親御さんなどほとんどいないでしょう。
ただし、愛情を受け取る側の子どもからすると、「条件付きの愛」でしか自分を愛してくれていない、と感じさせてしまうこともあるのです。

学校に行った日の自分や、学校に行くと言ったときの自分に対しては、親は笑顔を見せてくれたり、認めてくれるけど、そうでなければ難しい顔をしている。そうなれば「自分の存在価値って学校に行くか行かないかでしか測られないの?」と感じてもおかしくないのですね。親は「学校に行っている自分」を望んでいるのであって、「行ってない自分」は必要としていない、と感じてしまうのです。

無条件の愛とは

一方、「無条件の愛」はどうでしょう。
無条件であれば、愛するための理由は何も必要ありません。「あなただから」という理由だけで愛します。存在するだけで価値がある、ということを心得ているのです。無条件の愛を受け取ることほど嬉しいことはありません。誰もが、意識的にも、無意識的にも、この「無条件の愛」を求めています。

社会心理学者であり精神分析家かつ哲学者でもあるエーリッヒ・フロムという人が著した「愛するということ」という本があります。「愛」について様々なことが述べられていて学びになるのですが、中でも紹介したいのが以下の一文です。

“愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。”

愛するということは「保証がないのに相手を信じること」という意味もあるのですね。つまりは

  • 「愛したとして見返りがないかもしれない」
  • 「相手を信じたところで裏切られるかもしれない」

と感じている時点では、それは本当の愛とは言えないかもしれません。

おそらく、我が子が生まれた時点で、無条件の愛をほとんどの親が持っているのではないかと思います。
初めて我が子と対面したときの感情はどうでしたか?

  • 「生まれてきてくれただけで本当に良かった」
  • 「あなたがこの世に居るだけで嬉しい」
  • 「どんなことがあろうとあなたを守っていきたい」

などと思いませんでしたか?

子どもがひどく傷付いたとき、周囲の無理解に嘆いているとき、壁に突き当たったとき、ぜひこの「無条件の愛」に立ち返っていただきたいのです。

条件付きの愛は父性的、無条件の愛は母性的

親御さんの中にはこの無条件の愛を子どもに与えることが、「甘やかし」のように感じられる方もいらっしゃるでしょう。そこで、父親と母親の役割分担が大事になります。

  • 無条件の愛は「母性的な愛情」
  • 条件付きの愛は「父性的な愛情」

子どもが一人で生きていけるように導くには、条件を満たさなければ認めない、「それは違う」「それは駄目だ」と教えるような、父性的な厳しさも必要なのですね。しかし、現代は子どもに対して「父性的な愛」「条件付きの愛」に偏りすぎている、そう私は感じます。成績や学習態度、部活での活躍、そういったところで評価されるような環境でしょう。学校とか勉強云々抜きにして、単純にお前と一緒に居る時間が好きなんだ、と言ってやれる大人がどれほど身近にいるでしょうか。

無条件の愛を注ぐことで、子どもの心のエネルギーとなり、問題に立ち向かう勇気となるか、それとも愛情に甘えて巣立とうとしないか、それこそ「保証」のない問題ではあります。しかし、誰かがその子を無条件に信じなければ、その子が大人になったとき、他者を無条件に信じられなくなる、愛せなくなるかもしれません。

ある男の子が「親が自分を信じてくれないんだったら、一体誰が自分を信じてくれるんだ」と言っていました。さらに言うと、問題に立ち向かう勇気を持てるように無条件の愛を与えるのであって、上手くやれているときにだけ愛するんだったら勇気づけにはならないのですね。

順番が逆なのです。
上手くやれてる→愛する(条件付の愛)ではなく、愛する(無条件の愛)→勇気が持てるなのですね。

上手く行っていないときほど、自分を見失いそうなときほど、誰かからの無条件の愛が必要です。

ブッダのエピソード

最後に、愛について考えさせられるエピソードを紹介します。
お釈迦様(ブッダ)のお話です。

あるところに、キサー・ゴータミーという女性が居ました。彼女は、よちよち歩きができるようになったくらいの幼い我が子を失いました。死んでしまったことを受け容れられずに、亡き子を抱えてさ迷っていました。
母親は子どもを生き返らせる方法を探し求めました。彼女はやがて、ブッダのところに行き着き「仏ならば死んだ息子を生き返らせてください」と頼み込みました。

ブッダは母親に言いました。
【ケシの実】を持ってきなさい。ただし、それは誰も亡くした者を出したことがない家のケシの実でなければならない、と。キサーゴータミーは町中を必死で探し回りました。しかし、死人を出したことのない家は一軒もありませんでした。
そこで彼女は悟ったのです。死はどの家にも訪れている。そして人はみな、大切な人の死を受け容れねばならないということを。

生きているのであれば、生きているその子を愛しなさい。死んでしまったのであれば、死んでしまったその子を愛しなさい。そうブッダは諭したのでした。

愛するということについて、また死についてとても考えさせられるお話だと私は感じました。相手が死んだとしても受け容れ、愛し続けられるか、本当に難しいだろうと思います。

同様に子どもが問題を抱えてもなお、愛しぬけるか、非常に難しい問題だと思います。
しかし、人が詰まる所、追い求めるものは「無条件の愛」であるなぁと心得ておくと、いざというときにぶれません。周囲にできる、最も基本的な応援方法は「無条件に愛すること」ではないでしょうか?迷った時は、基本に立ち返ってみましょう。

それでは、またお会いしましょう。無料面談について詳しくはクリックbn-01

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