不登校になった責任追求よりもっと大切なこと④~不登校は心の大工事~
こんにちは。不登校支援センターです。
こちらは過去記事となります。皆様の日々のかかわりのご参考になれば幸いです。
これまでの記事で、不登校の意味について考察してきました。
※不登校になった責任追求よりもっと大切なこと①〜自律心と不登校〜
※不登校になった責任追及よりももっと大切なこと②~アイデンティティと不登校~
※不登校になった責任追及よりももっと大切なこと③~生きる意味と不登校
学校に行かない理由として
- 親が悪いから
- 嫌なことから避けているだけ
- 怠けているだけ
- ストレスに弱いから
といった理由では片付けられないことが背景にあることを疑ってみませんか?ということを一貫してお伝えしてきましたね。
不登校は心の大工事ともいえます
子どもから大人への過渡期にあるお子さんは、心身共に大きく変化をしている最中です。
ブログ①では、大人の言うことを聞くだけではなく、自分で決めたいという自律性が芽生えることを。
ブログ②では、「自分が一体何者か」というアイデンティティを確立していくことを。
ブログ③では、自分で納得できる生きる指針を模索していくことを。
説明してきましたね。
そういった過程で、子どもが言うことを聞かなくなったり、他者からの評価を気にしたり、意味を喪失したり、といったことが起こってくるわけです。それまでの価値観、生き方、やり方では上手くいかなくなっている場合、それまで作り上げたものを一旦壊し、新たなものを生み出さねばなりません。
たとえば・・・
「人に迷惑をかけてはいけない」と小さい頃から言いつけられてきたお子さんがいたとします。
その子は「人に迷惑をかけない自分」であろうとしますね。そうしないと親から見放されてしまうと思いますから。やがてその子は、人が嫌がることをしない、優しい子に育つかもしれません。
一方、学校に行くと「人に迷惑をかけてはいけない」はずなのに、同級生の中には好き勝手ばかりやって、言いたい放題言って、周りに迷惑をかけている子がいるかもしれません。自分は迷惑をかけないように気をつけているのに、その子はなんで気をつけないのか、イライラした気持ちになったり、不満を覚えるでしょう。
そして、自分がその子から嫌なことを言われて悲しい気持ちになっても、「人に迷惑をかけてはいけない」ので、他の人に相談してもいいのかどうか分からない。相談なんてしたら、相手からすると迷惑なんじゃないか。親には余計な心配をかけてはいけないのではないか、と思ってしまう。
そうして気持ちを自分の心の中に押さえ込みます。がらくたを押入れにとりあえず押し込むように、放り込んでいきます。我慢し続けて、心の押入れにがらくたを放り込み続けると、押入れはもうパンパンになってきます。もう我慢しきれない、どうしたらいいのか分からない・・・
このように、人は言いつけられた教訓、体験を通して学んだ教訓を取り入れ、その教訓でがんじがらめになっていくことがあります。
価値観を柔軟に対応していくことが求められる
この例でいうところの「人に迷惑をかけてはいけない」という教訓は大事な教訓でしょうが、それを誰に対しても、どんなときでも当てはめてしまうと、上手くいかないことも起きますよね。
生きていると人に迷惑をかけてしまうこともあります。
ときには誰かに頼らないといけないときもあります。
人の迷惑を顧みない人もいます。
これまで信じてきた「迷惑をかけてはいけない」という価値観だけでは対応しきれないところが出てきくると、「迷惑をかけてはいけない」という自分の行動の指針を一旦取り壊し、新しい指針を見出していかねばなりません。
押入れにがらくたを溜め込まないためには、「世の中には無神経に人に迷惑をかける人もいるけど、それとは関係なく自分はできるだけ迷惑をかけないようにしていこう」とか、「自分も相手も迷惑をかけることもあるし、お互い様かな」とか、「ときには、ちょっとぐらい人を頼ろう」とか、価値観をより柔軟にしていくことが求められますね。
- 「自分は失敗をしてはいけない」
- 「自分は恥をかいてはいけない」
- 「自分は優れていなければならない」
- 「自分は人に優しくしなければならない」
- 「自分は人に好かれていなければならない」
- 「自分は人の輪に入っていなければならない」 などなど。
そういった価値観についても同じことが言えるでしょう。
子どもの心の破壊と再生
いずれにせよ、心理的な問題を抱えている状態から、解決した状態へと移行する過程においては何かしら「破壊と再生」を伴うことが多いです。それまでの古い自分を壊し、価値観を壊し、ときには家族の関係の在り方を壊し、新しい体制が作られ、より発展していきます。
振り返ると「大きな変化を必要としているために、不登校が起こったのではないか」もしくは「家全体を変えるために、不登校が起こったのではないか」と考えさせられるようなお子さん、ご家庭を見てきました。
そんな変化を目の当たりにしていますと、不登校は「破壊と再生」のトリガーであると感じられるのです。
大きく悩んでいる・困っている人は、必ずしも弱い人・悪い人ではなく、何か変化を求められている、「心の工事中」なのではないか、と私は思います。
創造の病
私の好きな言葉のひとつに「創造の病」という言葉があります。
精神医学者のエレンベルガーという人が、創造的な思想や真理を発見する人々は神経症的状態を経験しているという事実から、このような病のことを創造の病と名づけました。
例えば、精神分析の創始者フロイトですが、フロイト自身がパニック障害の症状を青年期から抱えており、精神病の治療を開拓したユングは、自身が精神病のような症状を経験しました。
自己愛性人格障害の治療を開拓したコフートは、自身が自己愛的な人で共感能力に乏しいような人であったと言います。そして昨今人気のアドラーも、身体的に病弱であったり、死に直面する場面が多く、死への恐怖を抱いていたそうです。
彼らが自らの心の問題と向き合い、症状を克服する過程で生みだしたものが、彼らのそれぞれの治療理論となったと言えます。心理療法家だけでなく、作家や芸術家においても同様、偉業の裏には病や苦悩があったりしますね。
症状や心の問題であっても、それは創造の種になりうる、そういったことを教えてくれる言葉なので、私はこの言葉をよく思い出します。
ところで蓮の花は、綺麗な水の中では大きく育たず、泥水の中では大きく育つといいます。泥水の汚さを人の経験する苦悩とすると、苦悩がなければ人は大きく花を咲かせない(悟らない)、そういった仏教の教えがあるそうです。
最後に・・・
このブログを読まれる方の心に、何か少しでも響くところがあればと思い、全4回に渡って「不登校になった責任追求よりもっと大切なこと」を書きました。
子どもが不登校の状態になると、不登校の陰の部分、否定的な部分ばかりが目に付きますから、光の部分、肯定的な部分にやや強引に着目して論を進めました。
とはいっても、やはり当人にとっても、家族にとっても不登校は悩みの種ではあるので、「本当にそうなの?」と疑念を持たれた方もいらっしゃるでしょう。
それでも私がお伝えしたいのは・・・
子どもの行動に何か意味があるのに、親や先生、周りの大人に求めているものがあるのに、それに気付かないまま、すれ違ったまま、「悪いこと」と決め付けてしまったまま、時間が過ぎていってしまうのはもったいないということです。
子どもが学校に行かない、不適切な行動をとる、問題を起こすことで、
- 周囲に何を訴えようとしているのだろう?
- 他者に、私に何を求めているのだろう?
そこを分かろうとし続けていく必要があるのではないでしょうか。
そして「お前の問題はこういうところだ」と簡単に片付けてしまわずに、自分のことを理解しようとし続けている人がいるということが、子どもにとって何よりの心の支えとなるのではないでしょうか。
「こういうことかもしれない」と理解が広がることで、親御さんの心に余裕が生じること、「こういう風にやってみよう」と何をすればよいかのヒントとなることを願っています。
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