不登校になった責任追求よりもっと大切なこと①〜自律心と不登校〜
こんにちは。不登校支援センターです。
こちらは過去記事となります。皆様の日々のかかわりのご参考になれば幸いです。
本日は「子どもが不登校になったのは、私が悪かったのかな・・」と思われている親御さんにむけて記事を書こうと思います。
不登校になったのは“私の育て方の責任…”と思われていませんか?
- これまで子どもにきつく言い過ぎたのでは?
- 期待をかけすぎたのでは?
- 無理をさせてきてしまったのでは?
- 甘やかし過ぎたのでは?
- 夫婦喧嘩をいつもしていたのがいけなかったのでは?
- 離婚したのがいけなかったのでは?
このように、子どもが学校に行かなくなったことで、「私が悪かったのかもしれない・・」と心配したり、後悔される親御さんを多くお見受けします。また、自分で自分を責めたくなくても、他者から責められてしまう親御さんも多くいらっしゃいます。学校の先生から、病院の先生から、祖父母から、直接的・間接的に「親が悪いからこうなった」というメッセージを送られてしまう方も少なくありません。
しかし、何も問題のない親子の方がむしろ稀ではないでしょうか?
不登校をきっかけに親子関係がギスギスした感じになるのは避けたいことですが、親子関係がうまくいかないのは、いつの時代も、どの国でも、よく起こるのではないでしょうか。言い争ったり、衝突したり、甘えたりするのはどのご家庭でも起こってもおかしくないことです。距離が近い分、お互いに「相手にはこうして欲しい」という要求があり、折り合いがつかないこともありますよね。それはちょうどぶつかり稽古のように、子が親に反抗してぶつかることで、子どもの心が鍛えられる側面もあるでしょう。「もしかしたら私が悪いのでは?」と思われている親御さんにはぜひ、この記事をお読みいただきたいと思います。
不登校の原因を探すのではなく、不登校の意味を考えてみましょう
では、「親が悪いのでなければ、何が悪かったの?」という話になりますがそもそも「何かが悪かったから不登校になった」というのは決め付けかもしれないそう疑ってみませんか?
以前、私が執筆したブログ子どもの不登校を解決するために必要な2つの視点①でも述べましたが、何が悪かったのかを探しても、本当にそれが原因か確かめようがありませんし、原因を取り除くことも出来ません。上記の記事では「子どもの行動の目的」に焦点を当ててお話しましたが、今回は「不登校の意味」について考えていきたいと思います。今一度、「学校に行かないことの意味」をもっと深く、幅広く考えてみましょう。
学校という場は他律的な(他者からのコントロールを受ける)場でもある
学校という場について考えてみましょう。学校は、子どもを家庭から社会へと繋げる「架け橋」の役割をしています。社会で生きていけるよう、学力を身につける、規律を守る、対人関係を築く、集団生活を送る、そういった力を訓練する場であると言えるでしょう。学校にはそういった大事な意味があるのですが、物事には良い面があれば悪い面もあるように、社会で必要な力を磨くのと引き換えに犠牲になってしまうものがあります。それは、学校の画一的な教育によって、子どもの自律性を殺してしまうことです。知識量を増やすために知識を吸収することが重要視され、いつ、何を、どうやるかを強制され、受動的で大人の言うことを聞く、「良い子」が求められる環境とも言えます。
この「良い子」が求められる環境とは、学校で大人から評価されるのは多くの場合、大人にとっての「都合の良い子」であって、自分自身で判断する力をつけている「真の良い子」ではないということです。
自律性を高める教育を掲げているところもありますが、本当に子どもの自律性を認めるのであれば、子どもが自分なりの価値基準で判断し行動するのを妨げずに好きにやらせることになります。
- 「自分はこの科目を学ぶ必要はあるけどこの科目は必要ない」
- 「この行事は必要ない」など
と子どもが自分で判断していたのでは、学級を運営する学校側としては困った事態になってしまいます。学校教育のおかげで高い教育水準を保てているという恩恵はありますが、その代わりに学校は他律的な(他者からのコントロールを受ける)場であると言わざるを得ません。
「自律の芽生え」が不登校という形になって現れている可能性も
子どもは成長するにつれ、色んなことが見えるようになり、自分の考えを持ち始め、様々なことに疑問を持つようになってきますが、自律性のある人、独自の考えがある人、自分のやり方でやりたいという気持ちのある人ほど学校の制度に納得できない、ということがあってもおかしくありません。どうして全て強制されなければならないのか。人はみな平等なはずなのに、どうして教師は上で、生徒は下なのか、と。
かといって、「じゃあ学校が悪いんだ」という話で済ませられるような簡単な問題ではなく、ある程度社会の仕組みに合わせて生きねばやっていけないという現実があります。好き勝手をやって人の言うことを全く聞かない人は孤立していくでしょうし、仕事をする上ではやりたくないことだってやらなければなりません。そういった自律性と社会からの圧力との摩擦で心がうまく磨かれると理想ですが、実際のところ、子どもが自由にやれる自律的な時間は限られており、
- 「勉強しなければならない」
- 「授業を聞かねばならない」
- 「大人の言うことは聞かないといけない」
- 「勝手をしてはならない」
といった他律の時間だらけ、圧力だらけでしょう。そういった摩擦を上手く言葉で表現するのは難しいことですから、なんとなく学校に行く気にならない、先生がいけすかない、お腹が痛いといった形で表れる、つまり、「自律の芽生え」が不登校という形になって現れている、ということも大いに有り得るのですね。それが不登校という形となって出現することもあれば、他の形で現れることもあります。圧力のガス抜きでいじめが行われているように思われるケースは多いですし、高い圧力を受け続けて抑えられた自律性が噴火してしまうと、非行や少年犯罪に繋がることもあります。
子どもの“自律の芽生え”を察知し支える
- 子どもが段々言うことを聞かなくなってきた
- 自分の意見を曲げなくなってきた
- 勝手なことをするようになってきた
こういったことが思い当たるようでしたら、子どもの心の中では他の人の言うことを聞くだけでなく、
- 自分で考えたい
- 自分で決めたい
- 自分の方法でやりたい
そういった気持ちが芽生えているのかもしれません。もしそうなのだとしたら、単純に学校に行かせようとする(指示、強制、脅しなど)と、その子の自律性を殺してしまう、学校と子どもとの間で起きているのと同じことを繰り返してしまうことになります。代わりに、その子の自律性を尊重した支え方が必要になってくるでしょう。
しかし、子どもの方では、最初は無意識の「自律のテーマ」をもとに、なんとなく学校に行かないという選択肢をとり、いざ休んでみたものの、
- 何をすればよいのか決断できずに好きなことしかやらない
- 好きなことをやっていても学校のことがどうも気になって気分が晴れない
- 先の見通しも立たない・・・
といった事態になっていることがよくあります。せっかく芽生えた自律性が埋もれてしまわないように、
- 自分の人生をどんな人生にしたいのか
- 何に向かっていきたいのか
- そのためには当面はどんな風に生活していきたいのか
徐々に自分の人生を組み立てていくのが子どもの仕事ではないでしょうか。学校に行かない期間に自分自身と向き合い、深く深く考え、自分の生きる目的を見出していったお子さんは、こんな風に振り返っていました。
- 「学校に行かなかった期間は、自分にとって必要な期間だった」
- 「普通に学校に行っていたら考えないようなことも考えることができた」
そのように過去を振り返ることができるよう、一緒に深く考える、自分なりの答えを見出すまで付き合う、本人が試行錯誤するのを支えるのが周りの大人の仕事だと私は思います。
最後に・・・
ここまでお話してきたように、
学校に行かない = 子どものどこかが悪くなった or 親が悪かった
という単純な方程式では言い表せないことが起きているかもしれません。成長してきているからこそ、人生の壁にぶつかることになった、ということもあるのですね。学校に行かない意味は、その子によって様相が異なりますので、他の意味についても今後いくつか紹介していきますね。
※不登校になった責任追及よりももっと大切なこと②~アイデンティティと不登校~
※不登校になった責任追及よりももっと大切なこと③~生きる意味と不登校~
※不登校になった責任追求よりもっと大切なこと④~不登校は心の大工事~
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